2007年12月20日/脳挫傷の現実 [日記]

この日は、脳の損傷状況と受傷後の経過を見るために、MRIを撮りました。

その結果、脳の中央部分の挫傷がひどく、見せてもらった画像も中央部分が黒くなっていました。この部分が損傷することはあまりないとの事で、回復には時間がかかるとの先生からの話でした。

事故で打った右側頭部に出血か或いは水が溜まっている、との事でした。水だった場合は抜かなければならないし、血液だった場合は脳に穴を開けて血液を出すための手術が必要になるとの事。

いずれにしても、想像するだけで怖くて不安でいっぱいになりました。

脳挫傷とは一体どういう状態で、時間の経過と共にどんなふうに変化していくものなのか?回復するのか、しないのか?現状維持なのか、悪化する可能性もあるのか?

おっくんは、どうなってしまうのか?

ある日突然身近なものとなった交通事故による脳挫傷。私も家族もみんな予想もしなかった出来事に頭の中は、いま目の前にいる弟を見守るのが精一杯で、それぞれの生活と病院での看病の日々・・・。

「脳挫傷って何なのか・・・」 知識を得て、現実を知ってしまった時に、私たち家族はそれを受け止められるのだろうか?

でも、どんな現実だったとしても、それを知らずにおっくんの看病を続ける事の方が私にとっては不安が大きすぎて、精神的に圧迫感のようなものに押し潰されそうでした。

現実を知ってあげるのは家族の役目。そう腹をくくって書店へ行き、一冊の本を購入しました。「交通事故で多発する“脳外傷による高次脳機能障害”とは―見過ごしてはならない脳画像所見と臨床症状のすべて

もしも身近に交通事故で脳に損傷を負った人がいるなら、この本はとてもお薦めです。医学知識がない私が読んでも分かりやすいと感じた本です。

交通事故による脳への損傷、”高次脳機能障害”について、実際の受傷者の脳画像と共に事故の状況、事故後の脳の変化、回復までの期間などが詳しく書かれていました。

事故が起きた時の年齢が若い方が回復力も期待できる事や、意識不明で寝たきりの状態から数年の時を経て社会復帰した例などが書かれていました。また、時間の経過と共に脳が委縮して健常な同世代と比べて脳のサイズが小さくなる事なども知りました。

早速、すぐに妹に本を見せました。

でも妹は、「今はお母さんに見せない方がいい。画像がリアルだし、ショックを受けるかも知れないから」 と、連日の看病で憔悴しきっている母を気遣って、本を見せない方向を勧めてきました。

なので、私は母に対しては本に出ていた症例の中で回復した例だけを掻い摘んで話して聞かせました。「7~8年の時間をかけておっくんと同じような事故の人が家に戻る事ができたり、社会復帰した人もいるって分かったから絶対に大丈夫だよ!」 と。

ICUに入って交通事故で家族が命の危機にさらされるような事に遭遇して初めて知ったのですが、医師は何を質問しても最悪のケースを前提にしか家族へは答えてくれないのです。

ほんの僅かでも期待を持ちたい一心で医師にいろいろ質問するのですが、希望に繋がるような受け答えはしてくれませんでした。

例えば、「話しかけると目を動かしてくれる事がたまにあるんです。これって意識が戻って来て、私たち家族や友人を認識してるって事ですよね?このまま声を掛け続ければもっと回復してくる可能性もあるんですよね?」と聞いてみても、

「それは分かりません。意識がないまま反応しているのかも知れないし、このまま何も変わらない事も十分考えられます」 という返答だったりしました。

また、「書籍に7~8年経って、退院して社会復帰した人もいるって書かれていました。今は体が殆ど動かなくても、いつか歩けるようになる可能性もあるんですよね?」 と聞いても、

「私たちは救命救急の現場での現状しか分かりません。ここから別な病院へ転院してから、その人たちがどうなったのか知る術がないし、歩けるようになってこの病院を訪れた患者もいないので、分かりません。一生歩けないまま寝たきりの可能性の方が大きいと思います。」 と言われました。

そんなやり取りが日々続いているうちに、母は医師へ「絶望的な事ばかり言う」と愚痴る事もありました。

でも、今になって考えてみたら医師の受け答えは非常に妥当なものだったと思っています。

期待を持たせるような事を言って、結果的に全く回復しないまま病状が突然悪化して最悪の場合、亡くなってしまったりしたら、きっと家族は医師を責めるのではないかと思うからです。

だから医師には将来の可能性について質問する事は止めました。今ある現実しか答えようのない医師に将来について質問しても、それは答える側の医師にとっても困るだろうし、100%確実な回答ではないと知りながら、「希望を持つ為の返事を求める事」は、単なる自分への慰めを求めているだけなのだと思ったからです。

おっくんの日々の変化は絶対に回復に向かっているのだと自分たちが信じ続けて心を強く持てば良いだけの事。

いつも元気で明るい母は、おっくんの事となると何故か急にペシミストになってしまい、ネガティブな方向に考えてしまいがちでした。だから逆に前向きな事ばかりを毎日母には話すようにしていました。

事故からかれこれ3週間も経つと、家族の疲労もかなり溜まって来て、気持ちもどんどん沈んで行くのを感じていました。

おっくんは自呼吸の量も増えて来て、医療機器の補助割合も減って来ていました。脳は事故でタクシーとぶつかった衝撃で大きく揺れ、全体が損傷し、医師いわく「神経が断裂して脳がぐちゃぐちゃになっている状態だと思ってください」 と言われていましたが、時々声掛けに応えるように目を開けて見つめる瞳は、ハッとするほど懸命で”命の輝き”を感じずにはいられませんでした。

あとは病状が急変しない事を祈りつつ、家族みんなでおっくんを信じるのみ! 自分たちの気持ちがめげたら終わりだ・・・と、気力と戦う毎日が続きました。

この頃あたりから、病院のソーシャルワーカーの方から転院について話が出てきていました。ICUはあくまで救命救急なので、生きるか死ぬかの状況に置かれた患者しか置いておけないのです。

今この状態で転院を考える余裕なんて無い・・・というのが本音でしたが、もう少し経って命の別状がない事が保障されたら、ここ(ICU)には置いてもらえないとの事。確かに弟が転院すれば、もっと命の危機にさらされている人たちを受け入れる事ができるのも現実です。

でも家族の本音は、「他人より身内が第一」 と考えてしまうばかり・・・。

悩みながらも、ソーシャルワーカーと相談しながら転院先の候補を考え始めていました。

これから先どうなってしまうのか・・・。年末年始を挟んでの転院はいくらなんでもムリなんじゃないか・・・。今の病院は家から電車を乗り継いで40分だけど、候補の転院先はどこも更に遠いところばかり。通う母の体力も気になるし・・・。

考える事が多すぎて頭の中がいっぱいいっぱいでした。

病院から一歩出るとクリスマスのイルミネーションが鮮やかで、流れる音楽も楽しげで、自分の現状とのギャップが大きかったのを思い出します。12/23は父の命日で、本当なら7回忌の法要を行う予定でした。母は「お父さんは自分の7回忌におっくんを連れて行くつもりなのよ」 と言うので、「そんな訳ないに決まってるじゃん!お父さんが見守ってるからこそ、一命を取り留めたんだってば」 というやり取りを2~3回はしたのを覚えています。

「お父さん、お願いだからおっくんを助けてね。お母さんを助けてね」 朝の起床時と寝る前にいつも祈っていました。「万一連れて行くにしたって順番からしたら6つ年上の長女の私が先でしょ!」 と。

 


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