2008年1月7日~5月12日/苑田第二病院に感謝 [日記]

おっくんが救命救急がある日大病院から転院した先は、東京都足立区にある苑田第二病院という病院でした。

転院前に私が見学兼婦長との面接に出向いた際は、良い印象と不思議な印象とがあり、半ば直感で転院先を決断した記憶があります。転院を日々迫られていて、時間もなかった事もありましたし・・・。

 

苑田第二病院の良い印象は、病院が古い事と比例して、スタッフの方たち、特に看護師の方たちがとてもしっかりして、対応が良かった事です。見学時にもそれが感じられ、安心感がありました。

「不思議な印象」というのは、何というか・・・不思議なくらい看護師の方たちが明るい雰囲気だったのです。話していても自然と元気をもらうというか。

 

おっくんが転院したばかりの時は、反応もほとんどなく、日々高熱と脳挫傷の影響で左手足が無意識に大きく動いてしまう、という繰り返しでした。

そんな反応のない弟に看護師の方たちは、いつも底抜けに明るく声を掛けてくれました。

おっくんと同じ世代の看護師の方もいれば、母と近いくらいの看護師の方もいましたが、どの方もみんな素晴らしい方たちばかりでした。

喉に穴が開いた状態で呼吸も困難。その上、手足が始終バタバタと大きく動いてしまうような状況。

ベッドサイドの柵にぶつかってしまい、アザが出来て腫れてしまうのを見て、すぐに厚手のタオル類で柵を覆ってくれ、手足への衝撃を緩和する措置も施してくれました。

特に担当の看護師だったAさんは、とても良くしてくれました。

後でAさんご自身から聞いた話では、Aさんの息子さんとおっくんが年も近く、見た感じが似ていたのだそうです。そのせいだけではないと思いますが、まるで自分の息子に話しかけるように毎日おっくんの身の回りの看護にあたってくれました。

2月に入ってから、「胃ろう(いろう)」の手術をすることになりました。

口から食べる事ができないおっくんは、鼻に管を通して液体の栄養を胃に送り込む栄養摂取の形をとっていたのですが、逆流で気管支に液体が入ってしまったり、むせたりする事が多く、管が器官を傷つけて、そこから感染症を引き起こすリスクがあった為、胃に直接穴を開け、そこへ管を通して栄養を送り込む事が目的でした。

手術は無事に成功して、苦しい状況がだいぶ緩和される事になりました。

そのすぐ後の2/11に、同室の他の患者の方から「大きな声を出していた」という話を聞きました。

”声が出た!?”

 

信じられない思いでした。

もちろん、言葉ではなく単に声を出していただけでしたが、それでも私たち家族にとっては心の底から嬉しい出来事でした。おっくんが声を出した・・・。(T_T) 涙が出るほど嬉しかったのは言うまでもありません。

 

同じ頃にテレビで脳について取り上げた番組があり、膝を叩くことによって脳に響く、というような事をやっていました。

藁にもすがる思いで少し強めに膝を叩くようにしていました。とは言え、これが声が出た事と直接関係があるかは分かりませんが。。。

 

苑田第二病院では、リハビリを行ってくれました。

リハビリとは言っても、頭もろくに動かない、体もまるで動かない、しかも胃ろうで腹部には管付きで穴があいている訳なので、皆さんがリハビリと聞いて想像するような体の弱った筋力を取り戻すようなものではないのです。

リハビリ担当の先生がベッドに横になったおっくんを抱きかかえるように起こし、車椅子へと座らせ、日によってはその姿勢のまま腕や足をゆっくり動かす程度の事だったりもしました。

またある時はリハビリ室へ車椅子で連れて行き、専用の大きな器具の上に仰向けに寝かせ、ベルトで全身を固定してから、少しずつ器具を直立させて行き、本人の足で立っているような格好をさせて、下半身に力を入れさせる、といった事をやる日もありました。

立つ姿勢が相当辛く痛いらしく、時には怒って先生を動かせる右手で叩いたりする事もありました。

先生には悪いと思いつつ、「怒って感情をむき出しにしてるのは、脳にとっては刺激の一つかも知れないし、いい事だ♪」と思ったりもしました。

ただ、怒りの状況があまりにひどい日は、それ以上リハビリを続けられなくなってしまい中断する為、おっくんには病室に戻ってから「先生に怒ってどうすんの」と言って聞かせました。

こちらの言っている事が分かるのか分からないのか。。。でも、目は真剣に私の話を聞くような感じでじっとこちらを見つめていました。

 

3月に入ると、またおっくんの回復が窺えるような事がいくつかありました。

母が「目をつぶってごらん」と言うと、最初のうちは出来ないのですが、何回か言い続けていると次第にこちらの問いかけに応えるように目をつぶってみせるようにもなりました。

そんな些細な事・・・と思われるかも知れませんが、瞼を開けたり閉じたりする事は相当おっくんにとって大変な事だったのだと見て取れました。ましてや話しかけた内容を頭で咀嚼して、それに呼応するように瞼を開け閉めするのですから。「事故で脳細胞がズタズタに切れた状態」という救急での説明から考えても、それは物凄く大きな進歩だと思うのです。

それから暫くして「お母さんだよ!」と母が話しかけると微笑むようにもなりました。

”お母さんの事が分かったんだね!!!”

 

母もうれしくて泣いていました。。。。が、「お姉ちゃんだよ、分かる??」と私や妹が聞いても反応がほとんど無い状態。こっちが泣けて来ちゃいます。(T_T) ドンマイ、ドンマイ!そのうち絶対に思い出してくれるよね!

 

3/24:胃ろうも安定して来た、と病院が判断し、喉に開けた穴を塞ぐ手術が行われました。

3/28:ベッドの上半身部分を起こして、半分座ったような姿勢の時に、おっくんを呼ぶと呼ばれた方向へ顔をゆっくり向けるようになりました。凄い進歩だと病院の先生や看護師のみんなも驚いていました。

特に担当看護師のAさんは、私たち家族よりも長い時間看ていてくれているせいで、家族並みに反応の変化に気づいてくれて、仕事帰りに病院へ駆けつけると日々の報告をしてくれました。

3/29:病院のすぐ近くの公園で桜が満開だったので、車椅子でおっくんを連れて行きました。でも「桜だよ、おっくん分かる?」と話しかけても桜の方へ積極的に顔を向けたりはしませんでした。

花冷えのする3月下旬。風邪を引いたら今のおっくんには命取りになり兼ねないので・・・と早々に切り上げて病室へ戻りました。

「もう春だよ、おっくん。そろそろお姉ちゃんの事も思い出してくれないかなー。新緑の頃までにはきっと思い出してくれるよね!」

4/9:おっくんに「握手しよう!」と声を掛けたら、動かせる左手が動いて、握手できるようになりました。これにはさすがにかなり感激しました。日々の回復を肌で感じた瞬間です。

 

5/11:申し込んでいた「交通事故専門病院」へ転院できる事になり、この日が苑田第二病院最後の日となりました。担当看護師のAさんは、翌朝12日は非番だけど、見送りに来てくれるとの事でした。

 

5/12:朝一で病院へ行き、退院手続きを済ませ、民間救急車の到着を待ちました。

Aさんは約束どおり、非番にも関わらず病院へ来てくれて、「昨日、口から少しだけゼリーを食べさせてあげたの。そうしたらちゃんと飲み込めたから絶対に大丈夫。口から食べられるようになるわ」と言って、自費で介護食用のフルーツゼリーをいくつも買って来て持たせてくれました。

そういうしているうちに民間救急車が到着。Aさんは最後まで自分の息子に呼び掛けるようにおっくんに語りかけていました。おっくんも状況が少しは分かったのか、目から涙がこぼれて、そのうち段々顔が泣き顔でクシャクシャになりました。

”お世話になったAさんとの別れ”が分かったのかも知れません。

Aさんも母も別れ際まで涙でいっぱい。何度も何度もお礼を言って、救急車から手を振りました。

「いつかもっと回復した時には、必ずお礼にまた来ます」

毎日毎日、病室で寝たきりのおっくんに、Aさんを始めとする看護師の方たちが明るく話しかけてくれた事で、壊れた脳にたくさんの刺激があったのでは、と信じています。

 

本当にありがとうございました。感謝しても足りないくらい、私たち家族が一緒にいる時もいない面会時間外の間も親身になってくれた病院の皆さんに心から感謝の気持ちでいっぱいです。

本当に本当に、ありがとうございました。


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