2008年冬 [日記]

2008年の冬。
ちょうど一年前位でしょうか。

おっくんが事故に遭ってから丸一年。本当に物凄い速さで毎日が過ぎて行きました。春夏秋冬のうちのどれか2つくらいが無かったような気がするくらいです。

区役所の交通事故窓口で医療費上限制度の申請について聞きに行ったり。

高額療養費の上限。詳しくは、各市町村のサイトに出ているかと思います。

概要確認ならWikipediaで。。。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%A1%8D%E7%99%82%E9%A4%8A%E8%B2%BB

高額療養費の制度については知っていたものの、その手続きやら助成の範囲やら、詳しい事は何も知らず。そんな申請をしたのも初めて。

警察に行って本人代理で調書のヒアリングを受けたのも初めて。警察官のイメージが一変して私の中で良くなったのもこの経験があったからこそ。

おっくんの友達がすごくたくさんいて、みんな親身になって病院へ顔を出してくれる事に驚いて、弟が結構みんなに好かれていたんだね、と知ったのも事故があったからと言えばそんな感じ。

看護師という仕事の過酷さ、尊さを知ったり、ICU(救命救急)の戦場のような毎日を垣間見たのも初めて。

おっくんの事故は私たち家族にとって最悪なものでしかないのは、今も変わらない事実ではありますが、この事故を通じて体験したたくさんの事は本当に貴重なものばかりでした。それと同時に1年が過ぎるのがとても速くて怖いくらい・・・・・・。

去年の暮れ、2008年冬頃には、おっくんも流動食ではなく、ちゃんとした普通食に限りなく近い食事が摂れていて、年末年始は一時帰宅の許可も出て、お正月を自宅で迎える事ができました。

もちろん、たかだか2泊3日とは言え、病院から自宅までの介護タクシーでの送迎、自宅での身体の全介助など、自宅に戻る事は決して容易な事ではないのですが、それでも愛猫をなでたり、家族と一緒にテレビを観たり、元旦の朝をみんなで迎えたり、と何物にも代えがたい喜びをおっくんにもたらすならと、まさに家族一丸となって迎え入れました。

介護に家族の協力はすごく大切です。

将来、おっくんのみならず親の介護を考えた時、これとほとんど全く同じ体験をしなければなりませんが、そういう意味でもとても勉強になることばかりです。

 

この頃はすっかり回復の一途を辿っているおっくんでしたが、さはさりながら、高次脳機能障害で脳挫傷の後遺症は大きいものでした。

話す言葉も単語を言う程度。よく言う言葉は「腹減った」ばかり。ひどい時には10秒ごとに「腹減った」の連発。食べ終わった時からずっと。

ですが、後から知った事ですが、この「腹減った」には認知症の患者が言う「食べてないから何か食べさせて」を連呼するのと近いようで、実際には別な事を伝えたいのに言葉として出てこない為に「腹減った」になるケースもあるのだそうです。

おっくんの場合も今思えばそれに該当していたのではないかと思います。

そして何より私が気にしていたのは、おっくんの人間としての感情のことです。

”喜怒哀楽”

 

病院で意識不明の重体から目を開けるようになり、こちらの問いかけに反応するようになってから、順番としては、「楽(楽しいという感情が戻った)」→「怒(からかい過ぎたり、くすぐり続けたり、リハビリが辛いと怒りを露わにした)」→「喜(家族や友人が面会に行くと満面の笑みで左手を挙げる)」というように、”喜怒哀楽”のうちの3つは戻っていたのですが、「哀(哀しい、という感情)」だけは何を話して聞かせても明確な手応えが感じられませんでした。

このまま、おっくんは将来自分の母親が他界する事があっても涙ひとつ流せない息子のままになってしまうのだろうか・・・。

そんな不安が取り巻いていた去年の冬でした。


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